after rain

苦しみながらいきています

感情の絶対性

以前書いた記事を読まれた方は、僕が自分が世界で一番不幸だと思い込んで、その自分自身に酔ってしまっている愚かな人間だと感じる方もいらっしゃるかもしれません。


そんな事一言も書いておらず、誰からの反応も受けていないのに、存在しない他者から責め立てられる妄想が止まらないのでこの記事を書きます。


人はこの社会で生きる以上、物事を相対的に判断することが自然です。

ですが人が感じる感情、喜びも幸福も不幸も悲しみも絶望も。それらは相対的ではなく絶対的な感情だと認識しています。


例えば世間一般的の目線で、自分より不幸な立場に置かれている方は無数にいらっしゃると思います。

震災で愛する家族を失った、信じていた人に酷い裏切りを受けた、性的犯罪の被害に遭い大きなトラウマを植え付けられた、事故に遭い身体が欠損した、不治の病に罹り寿命を宣告された。


今ぱっと思いついただけでもこれだけある上に、それぞれ置かれた境遇や感じ方は様々です。

耐えきれず自分で命を投げ出す方も常に必ず一定数います。


ではなぜ感情は絶対的なものなのでしょう。

僕は学もなく頭も良くないので正しい答えがわからないですが、人は生まれた瞬間から一つの独立した個体であり他者と全く同じ人生の体験をし続けるのは不可能だからだと思います。

その人の心も感情もその人だけのもの。いくらどれだけ共感力の高い人がいたとしてもそれは他人です。

人の考えていることを全て理解するのは不可能です。


それなのに社会が存在する以上、人は相対的に物事を判断します。

したくないのに、その気持ちを捨て去ってしまいたいのにそれが簡単にできるものではないです。

そのジレンマがより人を不幸にします。


先ほど例に挙げたつらい境遇の中にいる方の中には、別にそれを不幸だと捉えず前を向いて幸せに生きている、僕からしたら強いと感じる方もたくさんいらっしゃると思います。


なぜそうなれるのか、そこにはきっと幼少期から現在に至るまでの環境、現在の取り巻く環境や他者の存在が大きく影響していると思います。

それまで生きてきた人生で培われた人格、そこに優も劣もないと思いますが、結局つらい境遇に置かれたとき、それを乗り越えられるのは本人の物の考え方です。

その時にどんな関係性であれ支えてくれる人の存在です。かけられた言葉を素直に受け取れる心の柔軟さです。それらをプラスに捉えられる性格です。

金銭的な余裕や、それをどう捉えられるかの価値観です。


全く同じ境遇で全く同じ事故に遭った方がその後の人生でどう生きるのか様々なのは、それらの要因に左右されると感じます。


正直本当にどうでもよくて興味のない内容を書いたので文章にまとまりがなかったり、医学的にも倫理的にも間違っている考えもあるかとは思いますが、これらが今の僕が感じている、人の感情の絶対性の内容です。


その上で書きますが、僕は今の自分が不幸だとはあまり感じません。なぜなら幸せを感じたことがないからです。幸せが何なのかわかりません。それ自体が不幸かどうかすら、僕には判断することができません。


ここまでの内容の上で、結局幸せになることは相対的に上手く生きるか、相対性を完全に捨てるか、そのどちらかだと思います。

僕は相対性を捨てたくても捨てられず、上手く生きることもできない。脳の伝達物質に異常があるのかパーソナリティの問題なのかそれ以外の何かなのか、まだ解決策は見えそうにありません。


10年ほど前から常に頭をよぎり続ける、死は救いという魔法の言葉。

別に宗教に興味はなく誰のことも信じられずどんな言葉も受け入れられない。

ただどんな人間もいつか必ず死ぬ。

死ぬことで全ての苦しみは終わるのもありますが、死ねば解決するのだからと、どこかその概念を拠り所にしているおかげで今も生きているのかもしれません。


僕はいつまで生きていられるのだろう。