after rain

苦しみながらいきています

花火大会と孤独

ふとスマホで天気を見たら地域のニュースが載っていた。隣駅で花火大会があるそうだ。花火大会なんて10年くらい行ってないし、今の陰鬱な気分を紛らわしてくれる気分転換にでもなればいいなと特に何も考えずに足を運んだ。


駅に着いたらとにかく人が多かった。警備員も声を張り上げ安全に執り行えるよう精一杯働いているようだ。そういえば花火大会って人がたくさんいたなとここにきて思い出した。人混みは苦手だ。耳につけたノイズキャンセルのイヤホンの音量を上げる。


駅から出るとさらに人混みは増していた。そりゃそうだ、みんな花火を見たいであろう。会場までは歩いて10分ほどだそうだが僕はもうこの時点で疲れていて、駅前の広間でしゃがんで見ようと思っていた。きっと久しぶりの人混みにびっくりしただけで、花火が上がればそちらに意識が向く。綺麗な花火と大きい音でそんな些細なことなんて忘れられるだろう、そう思いながらしゃがめて怒られない適当な場所探す。


花火が上がるまであと10分ほどのようだった。人混みを掻き分けている中、その人混みにいる人たちの多くは家族連れ、夫婦、カップル、友達同士。一人の人もいたが待ち合わせをしているようで、これから来る誰かがきっと約束通りその人の元へ駆けつけるのだろう。


人間の関係性や本質はそんな表面的なものでわかるわけもないし、それぞれ見えない所で色々な事情を抱えているのかもしれない。一人の人もきっといるはずだ。

それでもその時僕に襲いかかったのは全ての感情を無視するかのように降り注ぐ強い孤独感だった。


ああ、これだけたくさんの人間がいる中で自分は何故孤独なのだろうか。人とコミュニケーションもまともにとれない、人間関係を構築できない、誰からも必要とされていない、もはや人と接する権利もない、醜悪な化け物がそこにいた。あまりに惨めな気持ちと自分の立場を改めて認識してとても悲しい気持ちになった。


精神科医によく言われていた言葉を思い出す。人を愛する、愛されるためにはまずは自分自身を愛する必要があると。僕は自分自身のことが好きだと思ったことは生まれて一度もない。たくさんの精神医学の本や大衆向けの自己啓発本なんかも読んだりしてどうにか自分を愛する方法を勉強したこともあったが、何の言葉も何一つ自分には入ってこなかった。

僕はきっと死ぬまで誰からも愛されることはない。考えないようにしていた認識が脳内を支配して、それ以上思考を受け付けなくなった。


人は孤独を正しく愛することもできる生き物なのだろうが、きっと今の僕は他者からの承認欲求を捨てきれていないのだろう。

心の奥底で誰よりも普通を求め続けている、普通に対して病的なまでも理想を抱いている、他の多くの普通の人のように普通の人生を送りたかった。きっとただそれだけのこと。それを全て捨てることができる日は来るのだろうか。


花火が打ち上がって3分も経たずに帰ることにした。花火は全く綺麗に見えなかった。いったい何のためにここに来たのだろう。少し考えればこうなるのは目に見えていただろう。それすら考える頭もないのか。本当に来なければよかった。帰りの電車に飛び込むような気力すらなく、まっすぐと家に帰った。最低な花火大会だった。