こんにちは。
お久しぶりです、まだ生きています。
色々なことがあって現在は復職して働いています。
休職している最中、いくつかの出来事があった気がしますが、よく覚えていません。
何をしていたの?と問われたら、結局ずっと自己と向き合い続けていたのかもしれません。
たくさんのテーマや視点で物事を考えて、そのたびに解答を出そうと努力してきたのですが、結論として今の自分では結論が出ないというのが結論になりました。
もっと物事を上手に割り切れたら、都合良く解釈できたら、何も感じずに生きられたらどれだけ幸せかと思ってしまいますが、それができないのが僕なんだなと当たり前のありふれたところに落ち着くしかありませんでした。
特に誰かに読んでほしい訳でも評価してほしいわけでもないので、自分の思考の整理のために浮かんでくる思考を散文として書いてみることにします。
僕は人と価値観がズレているのだと昔から感じてはいたのですがその具体性や根拠を言語化していなかったので、それを自分自身が正しく認識できていなかったところが多かったなと思います。
これを書いている現在でも、おそらくほとんど正しく認識はできていないかもしれませんが、こればかりは突き詰めたら死ぬまで終わりがないことなのかもしれませんね。
例えば僕は他人との繋がりを求めているとします。この場合きっと僕は精神的に深い繋がりを求めてしまうでしょう。でも他人と深く理解し合うことはとても困難な上に、ただ他人と新たに関わることすら僕には途方もないほど難しいことです。
僕は他人を求めるのと同じほどの質量で、他人には何も期待してはいけないという考えがあります。
他人に期待をするとまず期待通りになることはなく、勝手に裏切られた気持ちになって傷付きます。
そしてそうなることが過去の経験からも予期できたはずなのに繰り返してしまった自分の愚かさに嫌気が指します。そのサイクルを繰り返していくうちに、他人との繋がりを求めることを諦めるようになります。
僕は自分のことが好きではありません。容姿や能力だけではなく、根本的に生きていることすら肯定できません。何か原因があって自分の生を認められなくなったのか、元々生を認められなかったのか、それは判断ができませんが、僕が他人を求めるのは突き詰めて言うと、僕の自分では肯定できない生を他人の承認によって満たして安心したいというものなのだと思います。
極端に言うと他人という存在は僕の生を肯定するためだけのコンテンツのようなものなのだと認識しているのかもしれません。おそらく世間一般の承認欲求とは根本的にズレているのでしょう。
別にそれは大なり小なり多くの人にも当てはまる感情なのかもしれませんが、他人の感情はわかりません。少なくともぱっと社会を表面から見渡す限りだと、比較的僕はその傾向が強いのかもしれませんね。
それはそれとして、他人のことを自分の生を肯定するために利用しようと望んでいる人間と深く関わりたいと思う人はどれだけ存在するのでしょう。
仮に同じような考えをもっている人間同士が出会うことができれば、相互幇助のように共依存のように、世間的に見たら歪なのでしょうが、当人間に置いては理想の関係が築けるのかもしれません。
ですが僕はそんな歪な関係性はおかしい、そんなものを望むのはおかしい、幸福にはなれないと理性で止めるでしょう。
そして何よりそんな他人と出会うことは、砂漠の中に落ちている一つのビー玉を拾い上げるのとどちらが難しいか、というほど確率が低いでしょう。
そんなくだらないことをぼんやり考えて諦めて忘れて、また僕は孤独を嘆き続けるのだと思います。
普通の幸福を得たいだけなのに、どうやらそれは叶いそうになさそうです。
幸福とは何かと考えたときに、それは形が存在しない、人それぞれ違うという前提があるとしたら、当人の脳が勝手に作り出したものでしょう。
当人が幸福だと感じたらそれは幸福、そんな簡単なことなのになぜ僕は決して幸福を感じないのでしょう。
僕は僕の生すら認めることができない、故に置かれた状況や発生した感情を幸福と認識することを認められないのでしょう。
僕は幸福になりたい、でも僕は認めることができない、ではどうしたら認めることができるのでしょう。
一番合理的なのは結局他人を利用することでしょう。でも僕は人と関わることができない。
考え方、性格には認識を変えようとしても、なかなかそう簡単に変わるものではありません。
では僕は何なら信じること、認めること、無条件に許可を出すことができるか考えてみました。
僕は誰のことも信用できません。どんな出来事もほとんど信用していません。発生する事情、出来事で信用できるのは死ぬことくらいかもしれません。
そんな僕はそう思ってしまう自分の感情は信用した方が良いのかもしれません。もちろん僕は自分のことも信用していません。ただ、自分の全てを信用できないにしろ、それらを細分化していけばどこかに信用しても良いポイントがあるのかもしれません。
それが誰のことも信用できない、という感情です。
そんなことを以前病院の先生に話してみたら苦笑された記憶があります。
つい先日、偶然ある言葉を思い出しました。いつどこで聞いたか覚えていませんしその意味も大して考えたこともありませんでした。
それがデカルトの我思う故に我ありという言葉です。
なんとなく意味を調べてみたら、僕の言った言葉と大体同じ意味だったので少しだけ驚きました。
別に僕は過去の偉人やら哲学者に興味もないですし、故人を含め他人のことは全員馬鹿にしています。
その気づきで嬉しい気持ちになったわけでもなくて、シンプルに過去に同じようなことを言っていた人間がいること、その言葉が残っているということは、その後の歴史においても多くの有象無象の人間たちがそのテーマについて考えて、同じようにたどり着いた証拠だということ、そして僕も結局その有象無象の一員であることに変わらないんだなと認識しました。
生まれてこなければよかったと、僕は一般的な考えからどこかズレているんだという考えは、別に僕の特殊なものではなく、それこそ人間の中にあるごくありふれたくだらない思考の一部なのでしょう。
良い意味でも悪い意味でも結局僕はただの人間に過ぎず、死ぬまでそこから抜け出すことはできない、そんなことを思いました。
死ぬことは怖くない、でも死に至るまでの想像を絶する苦しみを味わうのが怖くてたまらない。
多くの今を生きる人間が共通に抱えている感情でしょう。
その感情を乗り越えられるほどの事象はある意味人間にとっての救いなのかもしれませんね。
いつか必ず死ぬのがわかっていて、それならば生きている瞬間瞬間を無条件で愛して都合のいいように物事を解釈して好きなことをして生きることが合理的なのがわかっているのに、人間は不必要なまでにものを考えます。
無能とかそういう話ではなくて人間はそういう生き物なんでしょう。おやすみなさい。