after rain

苦しみながらいきています

孤独と他者の存在

例えば他者が僕との会話で僕の性質を言い当てようとする。それが僕にとって見当違いだとしても僕はそうかもしれないですと答える。その場で相手の意見を否定して相手に嫌われるのがとても怖いから。すぐに何事も否定から入る人間だとレッテルを貼られるのが嫌だから。相手が何かの話をしても僕は相手に興味がないからほとんど覚えていない。たまたま耳障りがよかったフレーズやすでに知っていた知識に紐づいたワードだけをなんなく覚えているくらいだ。それでも相手に嫌われないようにと喜ばれたいようにと好かれたいようにと、必死に覚えようとする。それでもあまり覚えることができない。それは僕の知能が低いのかもしれないし、そもそも本当に他人に興味がないからなのかもしれない。


人にとって一番興味のある話は自分の話であり、一番興味のない話は他人の話である。他人の話は興味すら持てないどころか強い不快感さえ覚える。興味のある話は自分にとって利益のある話か興味のある話か生理的に好きだと思える人の話に限られる。自分の話をしたい、自分のことを知ってほしい、話して相手を思い通りに感情を揺さぶりたい、同情を誘ったり尊敬されたり屈服させたりしてただ自分が気持ちよくなりたい。

それは僕の人格の問題なのか誰にも大なり小なり当てはまる人間の性質なのか判断はつかない。


人に興味がないし人のことを知りたくもないし人の話なんて聞きたくもない。それでも僕は人を求める。孤独が耐えられないから。孤独であるということが普通ではないから。普通ではないといけないという強迫観念に支配されているから。普通ではない自分自身を認めることができないから。幼い頃から築き上げられてきた人格は簡単に変わるものではない。

それでも人に接して人と関わり人と話すことが、内面では不愉快でたまらない。強いストレスを感じる。自分が何をしたいのか何を求めているのか自分自身ですからわからない。


心理学の本を気まぐれで読んでみた。僕は本が読めない。興味がなく集中力が散漫で活字だけの情報にすぐに飽きてしまう。記憶ができないため数ページ前の内容を覚えていられず文章の繋がりが正しく理解できない。一冊本をきちんと読んだことが人生で一度でもあったのだろうか。

どうやらその本は人が幸福になるのは他者を愛して他者に愛されることだと伝えたいように感じた。

もしもその本が正しくて僕の解釈が正しければ順を追うとまず最初に人を愛さなければならないらしい。


僕は人を愛するフリをするのがおそらく上手だ。人からも愛される。どうすれば人が喜び人が愛してくれるのか、理屈では理解していてそれを自然に行動することはそこまで難しいことではないからだ。

でも僕は誰かを正しく好きになったことがない。その概念が理解できない。恋の概念がわからない小学生のように自分の気持ちに戸惑うこともない。

なぜこの世の多くの人は人を好きになっているのか?それともこの世の人間たちも皆その概念がわからず愛するフリをしているだけなのだろうか。幸せそうに見える有象無象の集合体ですら全員が僕と同じなのだろうか、それとも全員が僕とは違うのだろうか。

どちらが答えだとしても僕はそれがとても怖い。人と接することも、それを考えることも怖い。怖いことや嫌なことはできるだけ避けて生きたい。苦しい思いをしたくないから。


それでも僕は孤独を嘆く。孤独は死ぬまで続くのだろうか。